まさか、自分がこんな状況になるとは知らなかった時期に「下書き」として書いていた原稿です
共に学ぶ、共に暮らすこと
このことを考えるキッカケになった記事はコチラです
まずは「共に暮らすこと」の価値
我が家は大家族です
90代のじいちゃん、ばあちゃんがいて、
私たち夫婦がいて、
子供たちも共に暮らしています
核家族が当たり前の日本になって久しいですね
私自身も、両方の祖父母とは疎遠で、
3人家族(ほとんど会話のない)のなかで育ちました
長じて、私の海外暮らしの中での癌治療がきっかけで、
両親と夫の母、そして、子供たちとの距離がぐっと縮まりました
苦しむ私たち4人家族を海外まで助けに来てくれた両親たち3人には感謝しかありません
時はたち、両親たちもそれぞれ、骨折をしたり、認知症になったり、さまざまな病気も抱えるようになりました
そんな中で、大家族で暮らすことが始まりました
我が家には、障害も病気もある子供たちがいますから、
それはもう、お互いに助けたり、助けてもらったりの毎日です
- 認知症のばあちゃんも
- 骨折して入院するバアちゃんも
- 紙パンツのお世話になるじいちゃんも
- 全員の経済を支える夫も
- ヨレヨレの私も
- 障がいも病気もある子供たちも
誰かが誰かの役に立っている存在なんです
助けてもらうだけの人なんて、1人もいないことに気がつきます
存在そのものが、助け、癒しであったりもします
昨年逝ってしまった認知症の母(ばあちゃん)のことを思い、今も、私も子供も涙します
感謝の涙なんです
大家族に限った話ではなく、
さまざまな人たちが「共に暮らす」というのは、
これからの日本にアリ!だと確信しています
高齢化が進むと、どう考えても、
老人施設に住む人たちのケアをできる若い方々の数が足りません
どう考えても足りません
方法はさまざまですが、「共に住む」ことによって、
- 働くお父さんお母さん達の幼いお子さんたちを見守ることのできる人たちがいます
- 元気のいい子供たちの存在は、高齢の方々に元気と笑顔をくれます
- からだ、あたま、こころ、それぞれに障がいももつ方たちにも、それぞれの特技があります
- 誰かの役に立つことができるということは、誰にとっても最大の喜びです
語りたりないくらい「共に暮らす」ことのメリットはあると思います
私自身が育った「核家族」の時代
自由は多かったけれど、心のつながりは、あたたかい関係は薄いものでした
共に暮らすという、ひとつのオプションを考えてみることもいいと思います
「わずらわしくても、あたたかい」
あらたな価値を見出せる方も少なくないと思います
次に「共に学ぶこと」の価値
先の↑記事にある通り、
日本の障がい児教育、特別支援教育は、共に学ぶというより、
個々に特化した教育ですね
そのメリットも、たくさん知っています
感謝です
私自身も、たくさんの地方の公立の小中学校6校で育ちました
お金持ちの子供も、恵まれない環境の子供も同級生でした
知的障がいもある子も、先生に「教えてあげてね」と机を並べて一緒に勉強しました
子供たちの学校では、身体に障がいもある子供とともに、運動会もありました
多国籍の学校では、私同様、現地の言葉がおぼつかない親も沢山いました
都会の「同じような環境」で生まれ育った人たちに特化された私立や国立の学校の良さも知っています
それでも、
それぞれの人に、それぞれの悩みと良さがあるのだという「当たり前のこと」を身をもって知る体験が、
心の柔らかい時期にあるのかないのかの「差」は、
人間が大人になっていく過程で、とても大きなものだと感じています
「知る」ことができるからです
「差別」は、意図して起こることもありますが、知らないから、体験していないから、もっと言えば、無知が原因のこともあります
子供たちの心は柔らかいものです
そんな時期に「みんな違って、みんなそのままでいいのだ(自分も、自分のそのままでいいのだ)」という
あたたかくて肯定的な「体験」を重ねていけたなら、
世界はもっと、それぞれの私たちにとって生きやすい場になると思います
人種や民族、国の異なる子供たちが共に学ぶことも同じだと思います
「知る」ことになります
国連からの指摘
井の中の蛙という言葉がありますよね
私たちは、みな、それぞれの井の中の蛙です
自分の知っている世界しか、知りません
上の記事↑で言われている「分離された特別支援教育の長期化」が国連から指摘されていることも、
そのひとつです
日本では当たり前のことが、ほかの地域では当たり前ではない
障がいが重い子供たちが、大人になってからも、
同じような人たちばかりで暮らすことは、
「あの怒りと哀しみの事件」にもつながりました
我が家のこどもも、あの事件で、
自分は生きていてはいけない人なのか?と傷つきました
- ケアしてくれる方々の大変さ
- 周囲のひとびとからは目の届かない「密室」の状態
よい環境を作るのは、とてもとても難しいです
これは「老人施設」も同じことです
同じような「怒りと哀しみの事件」が起こりました
ケアしてくださる方々の日々の「辛さ」は想像以上です
親を家族を介護したことのある人なら、それは誰もが知っていることです
それをしてくださる方々への感謝と、それに見合う報酬
今、決定的に欠けていることですよね
誰もが障がいをもつひととなる
高齢化社会です
私たちは歳をとります
その先には、
- 体の不自由(病気、怪我、障がい)
- あたまの不自由(病気、怪我、障がい)
- こころの不自由(病気、怪我、障がい)
と、嬉しくはないけれど、あたりまえの「その先」が待っています
人間だって生き物です
いつまでも元気ではありませんよね
障がいをもつ自分を想像したことがありますでしょうか
「いやいや、自分にかぎって!」と思いたいですよね
でも、
- 体のスペシャリスト、長嶋茂さんも堂々と障がいももつ人の仲間入りをされました
- 認知症のスペシャリスト(長谷川式スケールの)長谷川和夫先生も認知症の仲間に堂々と入られました
映画【英国王のスピーチ】2010年アカデミー賞、誰にだって障がいが、誰もが堂々と、認知症になっても堂々と - あい青子「大好きだった曲」と「手離し服」で幸せを感じる「認知症の予防と介護」www.aiaoko.com
- すべての私たちは年を重ね「高齢者うつ」は身近なものとなります
誰かを「差別」していたなら、
誰かに「差別」される側になってしまいます
誰かに「寄り添って」いたなら、
誰かに「寄り添って」もらえる側になるだけです
心ひとつの違いだよねと思います
考え方ひとつですよね
「共に生きる」という考え方ひとつですよね
ありがとうございます
我が家の障がいもある病気もある子供たちは、
ともすれば、自分というものに自信がなくなりやすい状況にあります
そんな時に「共にくらす」こととなった高齢のふたり(じいちゃん、ばあちゃん)の存在
どんなに健康自慢で、賢かった人たちも、こころも、からだも、あたまも、障がいに準ずるといわれる状態に老いていくのだということを学びました
お互いに助けあえるのだということを日々、知ることができました
人はあたたかいものだなあと、ご近所や、助けてくださる方々すべてを含めて、知ることができました
「共に学び」「共に暮らす」
いろいろと考えてみてもいいオプションだと思います
みなさまは
多様性のなかで生きることが怖いでしょうか
自分自身が「ケアされる側」のひとになる現実も怖いでしょうか
もっともっと、ひととひとは、あたたかい関係で共に暮らせるのだと信じています
今日もいい1日をお過ごしくださいね
個人的なありがとうございます
私は多分、もともとはちょっとシャイで、穏やかな田舎者丸出しの性格だったかと自分では思うんです
「人がいいね、お人よしだね」というかんじ?
そこから、子どもみたいな人と結婚して、病気や障がいもてんこ盛りな子どもたちと暮らして、
いつのまにか「時として凶暴な、強い熊の母ちゃん?!」いわゆるママベアに進化しました
海外で乳幼児を子育てしつつ自分の癌も乗り越えなくちゃならないし、
母国語ではない言語で、障がいも病気もある子供たちを守っていかなくてはならないし、
つぎには両親の介護もあるし、
ますます、家族を守るためには凶暴化する「危険な巨大熊の母ちゃん!」になりました
そして、平時には思います
「みんな違うのが当たり前」
「みんな苦しいことも抱えてるのが当たり前」
だから、もっとお互いに「違う人たち」にも寛容になりたいね♪ と
思います
「もっと生きやすい世界になるよ」
「自分だってもっと生きやすくなるよ」
熊の母ちゃんにも優しい心はあります♪
みんな、優しい心で生きていきたいですよね?
^_^
みなさまも、
今日も笑顔で、いい一日をお過ごしくださいね