ジョン・レノンの妻たち
カリスマであるジョン・レノンの妻になること、妻であることは、
どんな人にとっても喜びとともに、苦しみもともなうことに違いはないでしょう
現実には、
最初の妻シンシアと
2人目の妻ヨーコ(オノ)が、
ジョン・レノンという1人の男であり、かつアイコンであった人のパートナーとなりました
ジョン・レノンの妻シンシア
シンシアの写真、映像は山のように残っています
スターの妻という位置は、シンシアには居心地のいい場所だったとは思えません
やがて、男女の間に違うものがやってきます
ジョンが必要としていた強い母性
実母からは得られなかった愛をくれた人は、きっと、
ミミおばさんであり、
シンシアであり、
アルマ・コーガンであり、
ヨーコであったのでしょう
ジョンが惹かれるひとたちには、共通する強さがあるように感じます
シンシアから見た育ての親ミミおばさん
シンシアから見たアルマ・コーガンの存在
シンシアから見たオノ・ヨーコさんの出現
記事↑を読むと、シンシアからみた真実がそこにありますよね
ジョンとシンシアの息子ジュリアン
そして、ジョンとシンシアには息子がいました
ジュリアンです
離婚後、ポールが励ましの曲「ヘイジュード」を書いた相手こそが、まだ幼かったジュリアンでした
のちに、ジュリアンは父ジョンとようやく話し合える関係になりましたが、ジョンが亡くなってしまったのは、あまりにも早い時期でした
ジョン・レノン本人のある時点での気持ち
こういうものが公開されるということ自体が、スターとその家族たちの悲哀でもありますよね
シンシアにシンシアの真実があるように、
ジョンにはジョンの真実があったのでしょう
ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコさん
同じ日本人として、さん付けしないと居心地が悪いので、ヨーコではなくヨーコさんとさせてもらいました
彼女の側からみた真実というものも、もちろん、あることを忘れてはいけません
シンシアは、自分の夫、子供の父親を奪われた苦しみを持ちましたが、
ヨーコさんは、2つの家庭が壊れた責任、ビートルズが解散した原因という、とてつもなく大きいものの「犯人」にされるという苦しみを持ちました
どちらがいい悪いの話ではなく、生きるということの喜びと哀しみを強く感じます
ジョンとヨーコの息子ショーン
両親の愛のもとに育ったショーンといえども、父親であるジョンを早くに失っています
苦しみと哀しみは、どんな人生をおくったひとにも、あるものですよね
ともに生きること
たとえ両親が離婚に至ろうとも、父は父
ジュリアンとショーンがともに立つ写真や映像を見るたびに、じんとくるものがあります
ジョンのロックの殿堂入りのステージで
映画「ビートルズ:ゲットバック」のプレミアの席で
この映画は、ジュリアンにとってもショーンにとっても、
お父さんの若い日に会える特別な映画だったのではないでしょうか
お母さんを大切にする息子たち
ジュリアンもショーンもそれぞれに、ジョン亡き後、お母さんであるシンシアとヨーコと強い絆で歩んできました
本当に素晴らしいことだと思います
日本人として、帰国子女として、オノ・ヨーコさんを見つめる
イギリスにおいても、アメリカにおいても、友人知人たちなどヨーコさんをよく知る人たち以外からは「異質な東洋人」として誤解されやすかったはずですね
時代も今とは異なりました
日本においても、その「帰国子女」としての「日本人らしさ」からはかけ離れた姿に、誤解されることも多かったはずです
そんななかで、ジョンなき後もショーンとともに毅然として母子で生きてきたヨーコさんの姿に、
人間としての真の強さを見せていただいた気がします
バッシングという暴力に負けなかったヨーコさんは、本当の意味で自立したひとなのだと感じます
個人的な好き嫌いといった感情は誰にでもあります
けれど、オノ・ヨーコというひとを語る時に感じるある種の「居心地の悪さ」
その原因は、
やはり人種差別であり
異質なものへの村八分であり
ビートルズ解散における魔女狩りでもあったのではないでしょうか
私たちはみな、異質なものを「それもあり」と認める訓練をしていかなければならないのだと、
ヨーコさんの「どこにも属さない」姿をみて、学ぶことは多いと感じます
ひとは、みんなちがって、みんないい
そんな優しい気持ちに満ちた世の中でありますようにと願っています
ありがとうございます
私は家族愛が「暑苦しい」ひとなもので、家族の話にとても弱いです
男女の愛というのは、永遠に続くケースばかりではなく、
そこからの「親子としての人生」はひとそれぞれですね
シンシアを大切にしたジュリアン、
ヨーコを大切にしているショーン、
あたたかいものを感じます
ジョン、よかったねと言いたくなりますよね
みなさまも、
いい1日をお過ごしくださいね