もし人生最後なら何を語り残すか?
お正月の番組のようです
気になります
ヤマザキマリさんと、みうらじゅんさんです
ヤマザキマリさんの「自由」からの妄想
ヤマザキさんほどではないけれど
いろんな地で
いろんな人たちを
見てきたなあと思います
「覗き見人生」というのが自分の人生だった気がします
で、
そんな人生を望むか望まないかの話ではなくて
「自由」って手ばなしちゃいかん「既得権」だよという話なんです
世の中、お金の話ばかり
お金持ちだったら
あんな家に生まれたなら
たらればの連発ですよね
でも、
「自由」はどうなんでしょう
自由の観点でいえば
やり玉にあがりがちな「皇族」のみなさまは
ほんとうに「不自由」です
涙がでそうになるくらい「不自由」を生きていらっしゃいます
みなさま、そんな日々をご自分が生きることを想像したうえで
「皇族」の方々を批判していらっしゃいますか?
貧乏な生まれ育ち
どこの馬の骨?という境遇
不満ばかりをもちがちですけれど
でも、
自由の観点でいえば
ほんとうに「自由」なんです
どこに行こうが
何をしようが
だれも知っちゃことではない
こんな「自由」というお宝を無駄にしちゃいかんよと
思うわけです
そこからは「自己責任」です
しあわせになるも(というより「しあわせを感じる」も)
不幸になるも(同じく「不満を感じる」も)
自分の「日々の選択」の積み重ね、ですよね?
みうらじゅんさんの「走馬灯」からの妄想
ここです
満を持して語る”みうら流幸せのあり方”。明かされる“みうらじゅん”誕生の秘密、「自分なくし」「人間は死ぬんだって」「仏道」そして「走馬灯」。爆笑の中に驚きと感動が!みうらさんが目指す驚きの“人生の最後”とは?
いや、ほんとうに人間は死ぬんです
90代の両親の介護をする中で
自分が同じように「認知症の老人」になるだろうなと思いました
その時の「私流の幸せのあり方」をサポートするために、このブログを作りました
が、
人間、いつかわからん時に「死ぬんだって!」を体験中です
そして気がつきました
いま、自分がブログでしようとしていること
したいことは
自分の「走馬灯」を自分で「創作」することなんだ!?
これです
「創作」と言ったのはこの部分です
ぼくは昔、不良だったということにしたいんですね。
過去は作り替えられないけど、
自分しか見ない走馬燈ならいいでしょ。
憧れだった他人の過去を
スライドのように1枚混ぜておくと、
「ああ、あの頃はずいぶん親泣かしたな」とか
「やんちゃだったな」みたいな思い出が
さもあったように思えるでしょう。
もう、そのときは頭がボーッとしてるだろうから、
他人の写真でもわからないんじゃないですかね。
まさに~~~~!
わたしも「不良」だったことがありません
せいぜいが「水商売もどき」のバイトでバックパッカーの費用を作ったくらいです
「優等生」でした
だからこそ、「自分で作る走馬灯」のスライドの中に
「憧れの自分」の写真を1枚混ぜておきたい!
まさに、まさに!なんですよね
「ああ楽しかった」という最期のひと言
ココです
ぼくの最期のひと言は
「ああ、楽しかった」で死にたいんです。
でもそのためには、
「ああ、楽しかった」を
言い慣れてないと
スッと出ないと思うんです。
昨日今日考えたことなんてね、
死ぬときにはきっと出ないです。
そうそう!
全く同じですよ
人生の最期は「ああ、楽しかった」です
なんだかんだと苦労もしたけれど
なんだかんだと「ああ、楽しかった!」
それをね
毎日、ブログで語っているというわけです
「言い慣れていないと」いけませんからねw
反対に注意しないといけないのは
「文句」「悪口」ばかりいっていると
「言い慣れている」から
人生の走馬灯も「文句、悪口」で締めくくられるという
なんともいえない「最期」がまっていそうな気がします。。。
あちゃ!
ありがとうございます
無口だけれど
人づきあいが苦手だったけれど
こころ優しくて
自分がしっかりあった「亡き母」のマザコン娘です
でもね
私はわたし
母のようには行きません。。。
上記の文で分かるように
こころ優しくないなあ、わたし
でも、そこは仕方がない!
自分だもの
だいたいにおいて「フェイクのスライド」選出を
「不良!」にしたいなどというところがもう
本音丸出しで
もっといえば「ロックスターのグルピー」を一時期やっていた私
というスライドを入れたいですねw
ふふふ
自分しか見ることのない「走馬灯」ですよ
何を入れようと自由ですよね
みなさまは、どんな「走馬灯」を「創作」したいですか?
よろしかったら
ご一緒に掘り出しませんか? お気に入りの「楽しかった記憶」の数々を♪
それでは
今日もいい一日をおすごしくださいね